友への手紙 森田童子自選集

 2000年6月24日(土),インターネットで中古レコード店のホームページを見ていた。今まで,訪れたことのないホームページだった。それは,大阪にあるフォーエバーレコードだった。在庫リストの中に「森田童子 友への手紙(自選集)(ワーナー・パイオニア LS-114 DJ '81)」と言うのを見つけた。すぐさま,メールを送った。なぜって?「友への手紙(自選集)」はテープ企画として販売された物であり,レコードが存在するはずがなかった。フォーエバーレコードの対応は早かった。しかし,驚いたことにフォーエバーレコードの回答は「商品はレコード盤です。スリーブはプレーンな白色で曲名のかかれたステッカーが貼ってあります。スリーブの状態はあまり綺麗くありませんが、盤質は全く問題ありません。」と言うものだった。なに!!レコード盤の「友への手紙」が存在する!!驚きだった。でも,よく考えてみると,放送局へ見本盤を送ることは考えられる。しかも,ホームページにはレコード番号まで表記してある。これは,間違いないと思い,すぐさま購入メールを送る。そして6月27日(火)にレコードが到着する。間違いなく「友への手紙(自選集)」であった。
 レコードのジャケットはなく,まさにwhite labelと言ったところ。歌詞カードもワープロで打ち込みした物のコピーと言った感じで,誤字も含まれている。まさに,プレーンな「友への手紙」と言ったところ。ボクは市販品(カセットテープ)の「友への手紙」に出会ったことがない。おそらく,一生出会うことはないだろうと思っていた。そんなところへ舞い込んできた幸運。歌詞カードの他に,原稿用紙に早稲田大隅講堂裏仮設テント公演「森田童子 双頭の歌」と書かれたコピーが入っていた。これは手書きであり,おそらく公演のパンフの元原稿ではないだろうか。また,その裏には「森田童子軌跡」がワープロで打たれている。この文章は再発盤の最後のページに掲載されている「森田童子軌跡」とよく似た文章である。これもおそらく再発盤に載せる前の元原稿ではないだろうか。
 もう一つ,コピーが入っていた。それには「森田童子 双頭の歌」の第一幕の構成を担当した岸田理生の略歴が載っている。
 いずれにせよ,このサンプル盤には貴重な資料がたくさん含まれているようである。また,7枚のアルバムには入っていないモノローグも含まれ,初めて聴いたときには鳥肌が立ってきた。このサンプル盤の情報を出来る限り,このページに載せます。また,市販品(カセットテープ)の「友への手紙」をお持ちの方は,内容がサンプル盤レコードと同じ物かどうか情報を頂ければ嬉しいです。
友への手紙 森田童子自選集(放送用サンプル盤)
                (ワーナー・パイオニア レコード番号LS-114A)

カセットテープ[友への手紙](2001.5.5.up)
 ついにカセットテープ企画 「森田童子自選集・友への手紙」を手にしました。一生,手にすることはないだろうと思っていた。ところが,プロモーション用のレコードを上記のように入手した。そして,遂にカセットテープの現物を手にすることが出来た。それは,このHPを通して友達になったみつぼさんのご好意によるものでした。カセットテープは白色ケースでジャケは一部カセットテープから出る形で横長です。下の画像は金太郎さんからいただきました。

カセットテープのジャケの表です。
クリックすると拡大画像が表示されます。
カセットテープのジャケの裏です。
クリックすると拡大画像が表示されます。

[収録曲およびモノローグ]
 青字の部分がモノローグ,赤字の部分が曲の題名です。
 誤字と思われる部分もそのまま載せます。

夜のなかを夜に溶けて,夜を横切って,夜を切り裂いて,ぼくは孤独な暗闇になろう。
菜の花あかり
逆光線
夏休みのとても暑い日でした。郷里から送ってきた杏の実が,君の部屋いっぱいに散らばっていました。
まぶしい夏
赤いダウンパーカーぼくのともだち

 曲中のモノローグ 弱虫で静かな君を ぼくはとっても好きだった
            君はぼくのいい友達だった さよならぼくのともだち
ニューヨークからの手紙
中央線の阿佐ヶ谷駅を降りて,小さな店が並ぶアーケードをくぐり抜ける。
左りに曲がって少し歩くと二階建ての古い私設郵便局があります。
ぼくの住むときわ荘は,その裏手にありました。
ぼくは今でも,曲がりくねった細い露地に立つと,
君が向こうから歩いて来るような気がします。
蒼き夜は
ふるえているネ
終曲の為に第三番「友への手紙」
ラスト・ワルツ
早春にて

 曲中のモノローグ 黒いトックリのセーターと交換した
             君の黄色いシャツを
              ぼくはまだもっています
             もうすぐそこに夏がきています
             君は元気ですか
仲間が何人も申し合わせたように,規則正しく集まって来る喫茶店があった。
いつもアメリカへ行く事ばかり夢みている男,へたくそな自称詩人,売れない役者,
映画青年,競馬新聞ばかり見ている退屈な男達,
それは遊園地のメリーゴーランドの様に騒々しく陽気でまた淋しいものだった。
ぼくたちの失敗
淋しい素描

 曲の最後のモノローグ ラジオ,消しゴム,万年筆,新聞,腕時計,短歌,岸上大作,
                灰皿,マッチ,窓,雨,四月一日,エイプリルフール。
(次の物は男性の声でのモノローグ,おそらくカテドラルでのライブの物であろう)
1978年7月29日夏,東京カテドラル聖マリア大聖堂に1500人の人々が集まった。
休暇を利用して集まった友達は,一夏の熱い思いを残して,南は沖縄,鹿児島,京都,名古屋,
北は青森へと帰って行った。僕もまた一夏の記憶と友に,学生生活の甘美と痛恨の時が,
いつか僕の中を白白夢のように確実によぎることだろう。 (白白夢→白日夢)
雨のクロール
ぼくと観光バスに乗ってみませんか

 曲中のモノローグ ぼくの小さな海辺の観光地に もうすぐ冬がきます
             君も一度気がむいたら たずねて下さい 雅兄
君とぼくは 同じ線で結ばれた友達というやさしい放浪者だった。
君と二人して,夜明けの街の荒々しい空気に酔いしれて,二人はさまよった。
いつか君と僕は,同じ線で結ばれた友達というやさしい放浪者だった。
さよならぼくのともだち。
さよなら ぼくのともだち
風さわぐ原地の中に

[森田童子軌跡]
ぼくたちが森田童子によせ続けた,熱い眼射しと異常な興奮は,いまやライブハウスで伝説化されようとしている(52年6月/亀井英昭) ライブハウスの隆盛期の終わりといわれた51年より森田童子は,ライブハウスコンサート活動を開始した。西荻ロフト,甚六屋,屋根裏,宇都宮仮面館,両国フォクロア,新宿ロフトと4年間,連日観客が入りきらないと云う驚異的な観客動員を続けた森田童子のライブハウス活動はいまもなお,語り草になっている。森田童子は,ライブハウスが育てた最後の旗手なのかも知れない。岩手県の湯田村と過疎地に指定された岩泉町で森田童子のコンサートが開かれた。北海道の増毛町農業協同組合青年団主催,富良野市肉屋店員斉藤氏主催,岩手県の湯田村青年仲間づくり実行委員会主催,岩泉町に残っている7,8人の青年主催,新潟県の佐渡フォーク村主催,柏崎の元放送局のアナウンサーと仲間が主催,山形県の同人誌アップル主催,福島県会津若松の喫茶店じゃんだるむ主催,いわきの名画上映会はいから亭主催,栃木県は韓国民主宣言支援会,金芝河獄中救済コンサートを行い,沖縄県では,石垣島の有線放送と高校生主催,宮古島の平良文具店平良氏主催,久米島の民謡酒場と高校生主催,奄美大島の島唄保存会とセントラル楽器主催等,離島コンサートを行った。森田童子は,従来のコンサート・メーカーではない少数の人々の困難なコンサート作りの中から,従来の音楽活動とは違った回路を着実に生みだしています。白日夢のような,森田童子のコンサート「コンサート軌跡」▼昭和52年6月/豊島公会堂「童子像」東京での第1回目のコンサートは早大音楽プロデュース研究会が主催し,当日300人の人達が入場できないという状況がおこったにもかかわらず,60年代のフォーク全盛のアマチュアリズムを彷彿させるものでありました。そして翌月,7月四谷公会堂にて,青い旗の会による追加公演,支持宣言コンサートが行われました。▼昭和53年夏/東京カテドラル聖マリア大聖堂「鎮魂歌」クラシックのコンサート以外には,絶対に使用不可能であるといわれていた教会でのコンサートは,森田童子のコンサートに対する姿勢と,森田童子の世界を教会に理解していただいた結果によるものです。その後もクラシックのコンサート以外は開かれていません。▼昭和54年8月/早稲田小劇場アンダーグランドの数々の名作を生み出した早稲田小劇場での3日間連続公演は,15名ぐらいの有志によって作られました。謄写版刷りのチケット・チラシを使って街頭でのチラシくばり,友人の口込みで伝達されていきました。このコンサートは,ステージの上にまで観客が上げられ,150人定員のところに連日500人も入るといった,森田童子のライブハウスでのコンサートを思わせるものでした。▼昭和55年6月/池袋文芸座「地下室」より森田童子の一貫したコンサート姿勢は,池袋名画座と提携公演という形態で行われました。連続5日間で延べ2500人を集め,なお当日客が400人余りも入りきれなかったこのコンサートは,ともすると画一化されてエスカレートしてゆく大ホールでの音楽状況への常に反逆してゆくアンダーグランドの申し子,森田童子らしい状況でした。▼昭和55年11月/森田童子黒色テント劇場「夜行」<ぼくが眼をさましたら東京の真ん中に巨大な母船(mother ship)が浮かんでいた。テント劇場はぼくたちの最後のせつない夢だ。>森田童子は東京池袋三越裏空き地に,全国を旅し独自の演劇運動を続けている68/71のスタッフの協力により,黒色テントを設置しました。連続5日間の公演には延べ3500人の観客が長蛇の列をつくり,様々の思いを込めて参加しました。管理化されてゆく都市機構の中で,この森田童子の黒色テント劇場は,先鋭的コンサートとしてひときわ異彩を放ち,これ以降の音楽のひとつの在り方を確実に示唆していました。▼昭和56年3月から5月森田童子500人劇場コンサート作りがますます困難になりつつある状況の中で,森田童子は全国の収容人員400〜800人の中型ホールを選抜した約20ヶ所のコンサートを開始しました。各地での広い(階)層にわたる確実な動員力は,既成のコンサート作りでない回路で活動を続けてきた森田童子の浸透の強さをあらためて示すものでした。▼昭和56年10月/森田童子の活動は天井桟敷,早稲田大学演劇研究会,早稲田大学劇団木霊の協力による森田童子「双頭の歌」を5日から8日まで連続4日間,早稲田大学大隈講堂裏特設テントにて現在制作進行中です。昭和56年11月恒例の森田童子黒色テント劇場「ねじ式」が予定されています。


[放送用サンプルレコードに入っていたもの]

ジャケットに添付されたもの 歌詞カード 双頭の歌 岸田理生